他人の頭を剽窃した打落水狗なわたし

📅 公開: 2007-09-13

asahi.com: 「翼短かったタカ」… 安倍退陣、海外メディア辛らつ

Sankei WEB: 「安倍首相は臆病者」英メディア酷評

両紙を読み比べてみると行間や言葉尻にスタンスがかいま見られる。とはいえ、どちらにせよメディアは総じて打落水狗。
(的外れだろうけど)日比谷焼打事件 から日中戦争に突入するあたりまでのメディアってこんな感じだったのかなぁと想像してみたりする。なんだか気味悪いし、少しこわい。

というのも、「そうそう、オレが言いたかったのはそれだよ」と代弁してくれる人が雨後の筍のように現れては異口同音に批判を口にする。たとえば、テレビをつけると田勢康弘 氏や伊藤惇夫 氏や上杉隆 氏らが画面に映っている。なかでも、田勢康弘氏は2007参議院選挙まえから舌鋒鋭く批判しているけど、朝日・毎日をはしごしているあたりとWikipediaの経歴と秀逸な分析 (だと私が勝手に思っている)を読めば、それが「ウリ」でありと推察できる。他の方々も似たり寄ったり。予測を事実として語る口調は聞いていておもわずうなづいてしまう(が、今朝もその予測ははずれそうな勢い)。田勢氏をはじめとした彼らの言葉は心地いい。「おお、そのとおりだ。それをオレは言いたかった」とうなづき、「そうそう、もっとこきおろしてくれ」と溜飲を下げる。

鵺のような雰囲気が不気味。

内田樹先生 が書いている。

首相がこのような理由でこのような時期に辞任し、後継首相選びで与党内が大混乱しているにもかわらずまったく社会不安が起こらず(辞意表明直後に株価は急騰したのである)、日本の政治的空白が国際社会秩序にほとんどネガティヴな影響を与えないということはわが国の社会的インフラがいかに安定しており、市民がいかに政治的に成熟しているかを証し立てている。
政治家が無能で、官僚が腐敗して、メディアが痴呆化しているにもかかわらず日本社会がアナーキーへ転落するであろうと悲観している国民はほとんどいない。
これはほとんど奇跡といってよろしいであろう。
これほど安定した国民国家を世界史は知らない。
豊葦原瑞穂国の弥栄を言祝ぎたい。

前半の記述に私は異をとなえる。が、それは与太話。百家争鳴でいい。私の異はどうでもいいし、先生のようにロジカルに書けるはずもない。琴線に触れたのは、後半部分。 **「政治家が無能で、官僚が腐敗して、メディアが痴呆化しているにもかかわらず日本社会がアナーキーへ転落するであろうと悲観している国民はほとんどいない」**から のくだり。もちろんそのまま受け取らない。ひねくれているので、先生流の諧謔だと読み、私に自省せよと言っているのだと己につきさす。

「悲観している国民はほとんどいない」という言葉どおりを世間が具現できるなら、それぞれ無能の政治家にたいして過剰に依存せず、腐敗した官僚に怒髪天をつかず、痴呆化したメディアに頭を預けることもしないだろう。刹那な一喜一憂が覆い尽くす。先生はそれを諫めている(と思う)。

であるからこそ、他責的・他罰的にふるまわず、目の前の仕事を粛々とこなすじぶんでありたい。

わかりやすい単語が画面から発せられカッコいい言説がメディアを彩るとき、語れば語るほどじぶんのことばが軽くなることを実感する。よどみなくすらすらと”持論”を展開し泥酔する。そんなとき、「アレ、おれはなんでこんなことを口にしはじめたのだ」と決して訝らない。なんでと問う「仕方」を知らないから問えるはずもない。それはじぶんで考えて判断するのではなく、他者の言動を剽窃してじぶんが選択したと錯覚しているからだろう。

一国の総理としての言動と一人の人間としての懊悩がある。どちらもまったく未知の世界。それを妄想しながら中庸を考える。どちらかにたたず棲み分けない。「お疲れさまだよね」 とねぎらいつつ水に落ちた犬を打つ。そんなじぶんの曖昧さや優柔不断、自己矛盾をかかえ、五臓六腑に染みわたらせ沈思黙考する。身体で消化しことばの顔をつくる。

そしてそんなじぶんに気づいたとき、「ああ、なにを愚につかぬことを考えてる。そもそも地頭をもってないやつが考えられるわけないだろ」とひとりごちて、「そんな暇があるなら今日の糧をかせげ」と罵るぐらいがじぶんにはちょうどいい。