「何も選ばない」生き方のすすめ

📅 公開: 2008-11-20

「何も選ばない」生き方のすすめ ストレス対処への新たな視点、宗教人類学–植島啓司氏(前編)

–植島先生は年間200日くらい海外を旅しているそうですが、観光地を巡る“ツーリスト”とあてもなく放浪する“トラベラー”では、見える風景は違うと思います。2つの違いを意識することはありますか?

植島:観光だと「どこに行って何を見て、いつまでに帰ってくる」という行程が決まっています。翻って旅は決まった場所に行くのではなく、人と会うこと自体が目的であり、すべてが偶然の出会いに委ねられています。それが観光との違いですね。

予定の決まっている観光客は、どこかへ向かう途中でバスが故障したら焦るわけです。偶然を楽しめるかどうかは、どこまで日常の予定から離れられるかに関わってきます。

“脅迫”で動いている社会

–普段の生活で私たちは、高度に情報化された社会の恩恵を存分に味わっています。しかし、同時に物事が予定通りに運ぶかどうかはストレスの大きな要因にもなっています。情報化が進むほど、偶然を許さない傾向が強まっているように思います。

植島:この40年間で100か国以上を旅してきましたが、日本ほどいつも何かに強迫されている国はありませんね。世界有数のストレス社会であることは間違いありません。

時間の遅延を許す感覚がなく、何事も予定通りに行わなければならないと思い込んでいる。だから、進学でいうと子を私立に行かせなければならないと思い込み、病気になったらどうしようかと悩み、来年はこの仕事を続けていられるだろうかと不安になる。いつも何かに強迫されている。

電車がオーバーランしたくらいで新聞記事になる国は、ヨーロッパやアフリカ、アジアでもありません。だいたい電車なんて時間通り来ないことが当たり前です。

–日本の電車では、強風で遅れたときも、車掌が「申し訳ありません」とアナウンスします。自然現象すら認められないようです。それにしても時間という単位は、人間の作り出したものです。人為を絶対死守しなくてはならないという強迫的な風潮は、なぜ、もたらされたのでしょうか?

植島:オブセッション(強迫観念)が社会の原動力だからです。一般に高度資本主義社会の発信するメッセージは「あなたには何か不足していますよ」というものです。「自分は満足している」と思っていても、「いいえ、このテレビを買わないと迫力あるワールドカップは味わえませんよ」とか「もっと健康になりたいならこういう治療が必要です」といった具合に、「いつも何かが欠けている」という強迫観念で社会を動かそうとする。

保険にはぜったい入らない

–資本主義を導入している国はたくさんありながら、とりわけ日本はなぜこれほどまでストレスを強いる社会になったのでしょう?

植島:おそらく「何事もおろそかにしたくない」という日本人の几帳面な特性と資本主義の精神とが合致しすぎた結果ではないかと思っています。

几帳面であるとは、すべてに理由を求めることにつながります。そこでは偶然さや曖昧さが許されません。必ず原因を求め、何かに責任を負わせないと満足できないのです。

–きちんとした因果関係を求めるのは、自然なことではありませんか?

植島:いえ、因果関係の追求が論理的でない場合や、執拗に行われる場合もあります。たとえば、我が子が車に轢かれたとします。「相手がよそ見していた」とか「スピードを出し過ぎだった」という理由で被害者の家族が相手を責めることはいくらでも可能です。

しかし、「なぜ他の子ではなく、よりによって我が子が轢かれたのか」という根源的な問いに答えはありません。

–真摯に因果関係を追求すればするほど「なぜ」という問いの答えはわからなくなるというわけですか?

植島:基本的に人間は理由を欲しがる生き物です。自分の不幸の原因を知りたがる。明治以前の日本の社会であれば、「この世で起こっていることはすべて神さまの思し召し」という了解がありました。生は私たちの認識している範囲で完了しておらず、社会の外側にある“何かわからないもの”との兼ね合いで成り立っている。そういう信仰がありました。むろん前世の因縁を都合よく持ち出す人もいたから、その善し悪しはあったでしょうけれど。

ところが、近代に入るとそうした兼ね合いが削ぎ落とされ、社会の中だけですべての問題を解決できるし、しなければならないと思うようになった。

–つまり、因果関係が非常に単純化され、原因は追求すれば明確になる。そういう新たな考えを信じるようになったわけですね。しかし、現実は常に「一寸先は闇」です。

植島:私たちは、これから自分の身に起こることが何か分からない。しかも、近代以前のような説明体系がないから、不安でしょうがなくなります。だから現代の日本人は不安を補填するために保険に入るしかない。日本人の保険に入る率は他の国と比べても異常に高い。

私は絶対に入りませんけどね。大手の生命保険会社が保険金の不払いで訴えられたけれど、「それ見たことか」と思いますよ(笑)。生命保険は、人の抱いている強迫観念と連動していて、恐れがあるから加入する。でも、保険が効率よく機能しているかどうかは別問題です。

実際、30万件を超える不払いが暴露されて、大手生命保険会社はようやく謝罪しました。裏を返せば、これまでものすごい量の苦情やクレームがあったのに握り潰してきたわけでしょう。まともに契約していても支払われていないケースが圧倒的に多かったはずです。

どこまでも選択しない生き方

–死への不安が悪用されたわけですね。世界の地域や民族により死への思いは様々だと思いますが、海外で接した印象的な死生観はありますか?

植島:まず、「死んだらしょうがない」という態度です。自分の死後の家族について考えたとしても、本当のところは自分が死んだ後はどうでもいいことだし、どうしようもない、と。

「どうでもいい」というのが無責任に聞こえるとしたら、それは死んだ後のことまで強迫されているからでしょう。「死んだら終わり」または「死んだら(根拠なく)幸せになれる」というのはむしろ好ましい考え方かもしれません。

–せめて生きている間は、自由を謳歌し、人生をコントロールしたい。そういう考えから、現代人は責任と選択を非常に重視しているように思います。

植島:ええ。一方で、アジア、アフリカ諸国の人々の暮らしぶりを見て思うのは、「普段の生活に選択の余地などない」ということです。もちろん頭の中でやりたいことを想像することは可能ですよ。そういう意味ではなく、1日のうち15時間くらいは、畑仕事とか水汲みだとか確実にやらないといけない仕事が決まっています。そういう社会を生きる人には選択の余地がない。その代わり、心は不思議にゆったりしている。

私たちの暮らす社会は、朝起きたときからいろいろな“選択”の可能性があります。会社勤めでも、様々な判断事項が自分の身に降り掛かってくるし、私生活でも「いつ誰とデートしよう」とかあれこれ考えられます。

選択の余地があり過ぎることが幸せにつながるかは疑問です。たしかに、生きる上で“自由”は何より重要です。でも、社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で指摘した通り、自由だと余計にしんどさを抱え込まないといけなくなる。そうなると選択することに対する処方箋が必要になります。

近代を説明する上で格好な例は恋愛小説でしょう。主人公の前に2人の女の子がいて、どちらかを選ばないといけない。たとえば、妻と愛人、恋人とその友人など、あいだにはさまれて主人公はものすごく苦しい思いをする。近代小説はこのテーマがほとんどです。

選択することが可能になると同時に、精神的な悩みも増幅されることになる。私はもし選択しないことが可能なら、どこまでも選択しない生き方を追求したらどうかと思っています。

風に揺られるように生きるほかない

–積極的に選択しないということですか。でも、何かを選ぶ意志なしに物事は進展しますか?

植島:そもそも意志というのはそんなに当てにならないし、選択に合理的な判断などありえません。自分の選択が正しかったかどうかは、決して自分で確かめることはできないのですから。

それより「いい加減に生きる」ことができたらずいぶん楽になるだろうというのは、旅を経験して思うことです。人生にはどんなに苦しんでも理性では解決できないことがたくさんあるんです。

先日も旅先のエチオピアでテロが起こりました。検査にひとり1時間以上かけるから飛行機の出発が遅れる。会議に遅れそうなビジネスマンはイライラするかもしれない。けれど、同じ状況でもテロに遭わずラッキーだったと思える人もいる。何事も考え方次第なんですね。

この世に自分の思う通りになることはそう多くないのだから、逆らったり突っ張ったりしないで、風に揺られるように生きる他ないと思うんですけどね。

–起きたことは起きたこと。そう受けとめると、ストレスにもうまく対処できるでしょうか?

植島:気まま風の向くままで、そのとき起きた出来事に応じることでストレスに対処する。それが大事な姿勢だと思います。

たとえば、精神科医や介護士は仕事上、患者や相談者から、「あなただからこの話をする」という重い内容を聞かされます。そのときのストレスにどう対処するか。プロが口を揃えて言うのは、相手が病室や事務所を去った瞬間、その話をすべて忘れるのが仕事を続ける秘訣だということです。

一見、薄情そうに聞こえますが、次に会ったときは、またその人に関する記憶がパッとつながるから、蔑ろにするのとは違います。

彼らは日々、何十人と会っているから、特定の人に関する印象を断ち切っていかないと他の人と話ができない。瞬間で関係を断ち切れるから、すごく深刻な話をした人が部屋から出ていった後でも、次の人にすぐ明るい話を切り出せる。

山積課題はいちばん簡単なものから

–なるほど。「いい加減に生きる」というのは、投げやりではなく、「そのときを生きる」ということですね。しかし、日々何かに追われていると、やらなくてはいけないことが目白押しで、目前のことに集中できなくなることがあります。どうしたらよいでしょうか?

植島:たとえば、重要な会議に出席することとか書類をコピーしなくてはいけないこととか仕事がいっぱい重なったら、いちばん簡単なことから始める。

これは口でいうと易しく聞こえますが、意外と難しい。それだけに本当に大事なことです。

切手を買いに行くような些細な用事でさえ、5つも6つも重なっていたら途端に重荷に感じます。人間は、内容の軽重でなく、用事の総量で大変かどうかを考えてしまうもの。雑用とか大事な用件とかが同じくらいに頭の中を占めて焦っているときは、まずいちばん簡単なことから手をつける。そうすると、あっという間に仕事は減っていきます。

–「しなくてはいけないこと」に囚われたまま仕事をすると、自分を見失って肝心の仕事の処理は疎かになるということですか?

植島:重要なことは手間がかかるので、なかなか片付きません。それでいて雑用に気持ちが残ったままだから余計に仕事がはかどらない。

たとえば、あなたが失恋したとして、そのことばかり考えていたら、家賃の支払いが遅れるとかやるべきことがどんどん溜まってしまう。そんな場合も同じく、簡単なことから処理して、厄介なことは後回しにするということです。

簡単にできることからやっていくと、「自分ひとりでできることは、たかが知れている」と分かるようになります。

そういうことは旅していると特に分かります。旅先では、自分がマイノリティになります。まず人の助けがないと生きていけません。厄介事に対し、突っ張って自分の力でやっていこうとしても、なかなかうまくいかない。

自分だけの力ではどうしようもないことを学ぶのが人生なのです。宗教から学びとれることもその本質部分を抜きにしては考えられません。